書籍「日本の研究力低迷の原因と解決方法」の序章
この記事は、書籍「日本の研究力低迷の原因と解決方法」の序章相当部分を公開するものです。
本書は2022年に公開したものですが、いまだ日本の研究力低迷は解決の兆しを見せていません。問題を解決するには、問題が起きる仕組みをよく調べ、解決方法を生み出す必要があります。多くの人にお読みいただき、解決のためのエネルギーが社会に生まれることを期待しております。

本書の概要
日本の研究力低迷問題を解決するには、研究現場にどのような問題があり、これらがどのような原因で生じているかを様々な視点から明らかにし、原因に則した解決方法を考える必要がある。本書では、研究力低迷につながるさまざまな問題とこれらが生じる仕組みを説明する。問題解決のために特に重要なのは「組織内の利害非共有問題(研究者分断問題)」「擬似成果主義による研究費配分問題」「技術軽視の風潮」の解決を政策課題として掲げることだ。本書でこれら問題の解決のための施策案を示すように、これらの問題は施策によって解決が可能な問題である。研究力低迷問題が発生する仕組みについての理解をさらに向上させつつ、効果的な政策を立案することが重要だ。
伸び伸びと自由な発想で研究に打ち込める研究教育環境を、日本中の研究教育機関で実現し、この環境を次世代、将来の日本を担う若者に引き継がなくてはならない。研究力向上、人材育成力の向上は、日本の経済活性化の礎となり、GDPの大幅な伸び、豊かな日本の再構築の基礎となるだろう。ぜひ、関係諸氏の問題理解とご協力、ご尽力をお願いしたい。
本書の序章
日本の研究力が低迷していることはすでに広く認識されていることとして、本書では議論しない。なぜこのような事態に至ることになってしまったのだろうか。行政から出される各種の文書を読むと、あることに気が付かされる。理想はしっかりと語られているが、不都合な現状がどのようにして生じているのかについての説明がないのだ。どうやら行政は、理想を語るのには熱心だが、問題の原因追求には興味がなく、問題の原因の追求は、ほとんどとなされていないようだ。
説明が全くないわけではない。しかし説明はあっても、歴史的経緯や慣習、個々人の志や資質に原因を求めるものであって、問題をどのように解決するのが良いのか考える上で重要となる説明がない。すなわち大学の研究室の各職位の考え方や利害のあり方、研究室の集合体である部局(学部や学科、研究科などの運営主体)のあり方、各種の政策や制度が、これらにどのような影響を与えているかに基づいた説明や、問題がどのように生じているかについての現場状況に則した説明がない。
例えば、「大学の人事の流動性が低い」ことが問題とされているが、「大学の人事の流動性が低い」のはなぜか、上記のような観点からは説明されない。また第6期科学技術イノベーション基本計画に「大学や研究現場に蔓延している漠然とした停滞感」という象徴的なフレーズがあるが、「漠然とした停滞感」がどのようにもたらされているのか、説明はなされない。これでは、そのような説明に基づいて、問題解決のために何をどうすべきか、といった方策を考えることができない。
本書では、解決策の提案につながるような問題の原因を分析する。本書では研究力低迷問題の原因を、各種制度や政策が「研究現場」に与える悪影響に求め、現場視点で制度やシステムの不具合、研究者の意識、考え方、行動選択に落とし込んで説明することを試みた。 日本の研究力低迷問題について筆者は以下のように説明する。詳細は本編をご覧いただきたい。
「研究機器を購入する予算が研究者に与えられる」という古くからある制度によって、日本の研究室は組織内において高い独立性を与えられていた。すなわち研究費さえあれば、組織内の他の研究室と相互作用を一切することなく研究に没頭できる。この高すぎる独立性は研究室間を分断しており、また、お互いの協力関係が希薄な様々な研究室が雑多に寄せ集まった研究多様性が高すぎる弱い研究組織を形成するだけでなく、研究者が一から十まで全て自分でしなくてはいけない環境(日本の研究室はジェネラリスト育成体質であると言われている)、機器のオペレーターが育たない環境、機器重複死蔵問題が発生する状況、アクティビティが低下した研究者が周囲からサポートを得られない環境、という日本独特の研究環境が少なくとも二十年前には作りだされていた。さらに、組織に期待される「成員が相互に協力しあうことによって生産性が高まる」効果が忘れ去られた背景のもと、近年の選択と集中政策、任期制や競争主義の導入、さらには2007年に助教と准教授の職務が、教授を助けることであるという規定がなくなったこと、論文業績の第一著者と責任著者しか評価しないという風潮の高まりによって、ますます組織内の研究者間の利害非共有が先鋭化した。利害非共有は授業の質を低下させ、討論会を消失させ、優れた成果の発信力を低下させ、研究者の組織への帰属感を失わせた。また、研究者間の関係が希薄化したことが、各種ハラスメントの横行、研究不正の増加を引き起こした。さらには、研究室が小型化したことで、技術や機器やノウハウを利害共有範囲内に十分に蓄積できなくなり直接的に研究力が低下した。研究室小型化と職位規定変更は、利害非共有状態において、助教人事において教授研究テーマの実施が期待できる人員を、研究教育能力を十分に考慮せずに少人数の卒業生や関係者から選ぶことにつながり、必ずしも優秀な研究人材が研究教育職のポストを得られない状況となっている。
組織内の利害非共有と競い合い、および、高すぎる研究多様性は、研究者がお互いに助け合って生産性を高めることができない状況を生み出した。のみならず、お互いに助け合わないことが普通となった組織では、新しい技術を習得した人を組織に迎え入れる動機が働かない(組織に採用候補者の技術が伝播されること、能力が活用されることが期待される状況にない)。これを背景として、優秀な人がかえって採用されにくくなり、派閥の論理による持ち上がり人事が行われ、人材の流動性が低い状態が続いている。人材の流動性が低いことは、研究者が機器を購入できる予算を配分されて機器が(組織管理でなく)研究室管理であり、転出によって慣れ親しんだ機器が使えなくなることも関係がある。
技術伝播を期待しないこの状況は、新しい技術習得がポスト獲得につながらないということであり、技術軽視の状況にあると言える。技術軽視の風潮は、期待成果主義とでも呼ぶべき成果主義でない方法で研究費が配分されていること、成果の質に踏み込まずに数を主な評価の対象とすること、ゴール達成報酬式の研究費制度がないこと、積み上げ式の予算制度が用いられていること、によって維持・強化されている。このような技術軽視の元、技術習得に対するインセンティブが極めて弱くなっている。技術軽視によって、技術の独自開発がなされなくなり、世界的に見ても十分に一般化・陳腐化した、つまり最新でなくなった技術を用いて研究を行う状態となっている。
他にも、研究費獲得が目的化していること、若手に予算を与えて独立させることで様々な良い環境要因が失われたこと、研究が様々な制約をうけるようになっていること、査読有無の区別によって日本語総説を書く意欲が減退して、日本語で最先端の知識を学ぶ機会が減少したことなど、様々な問題がある。
これらが総合して「日本の研究力低迷問題」を生んでいる。
研究力低迷問題を解決するのに筆者が特に重要だと考えるのは、「組織内の利害非共有問題(研究者分断問題) の解決」「擬似成果主義による研究費配分問題の解決」「技術軽視の風潮解消」の3点を、政策課題として設定することだ。これらはいずれも、行政による施策によって解決可能であり、問題が発生する仕組みに基づいた解決策としては、機器共用に向く構造の研究建屋を建築し利害共有促進を意識して階層的に研究教育組織を再編成すること、組織内利害共有促進を目的に政策を立案すること、研究成果を質に踏み込んでしっかりと評価する機構を設立するとともに研究費配分を期待成果主義から成果主義に転換すること、技術重視の風潮を醸成することなど、が挙げられる。
本書の構成は以下の通りである。なお本書で提案する掲げるべき政策課題とその概要、施策案を表1に、提案する大型アクション2つについて表2にまとめてある。
- (1)組織内利害非共有問題 (1章)
- (2)擬似成果主義問題 (2章)
- (3)予算獲得の目的化問題 (3章)
- (4)成果の質より量が重視される問題 (4章)
- (5)技術軽視問題 (5章)
- (6)若手の劣悪研究環境問題 (6章)
また、その他の問題を7章に集めた。その他の問題が重要でないと言うわけではなく、分類の便宜上このような区分になったことをご了承いただきたい。また8章では、趣旨が多少異なるが、研究者にとって魅力的な環境とはどのようなものか議論した。また付録では、これらの問題が解決された理想状態がどのようなものであるかについて、青写真を掲げるとともに、研究にまつわる個別の問題、例えば人事流動性がなぜ低いかといった問題について、説明した。
研究の世界においては、研究対象に対してそれを説明する様々な説が提起され正しいと思われるものが残っていく。正しいと思われた説にも、新たな矛盾が見出され、様々な修正説が提起されより正しいと思われるものが残っていく。このようにして研究対象への認識が向上していくのが研究活動の基本であるが、研究力低迷問題といった問題についても、このようにしてより正しいと思われる説を得ていくことが重要であろう。上記の説明は筆者が唱える説に過ぎない。もし日本の研究力低迷問題を、もっとうまく説明できる説があれば、どなたか提唱していただきたい。より良い説明には、筆者は喜んで道を譲る。筆者は本書によって、日本の研究力低迷問題が、解決に向かうレールの上に乗ることを期待している。
なお、本書では、選択と集中政策の弊害については取り上げなかった。この問題については、「科学立国の危機(豊田長康著)」「誰が科学を殺すのか(毎日新聞「幻の科学技術立国」取材班著)」など他書をご参照いただきたい。


さらなる提案
以上が本書の序章です。4点ほど付け加えさせてください。
1点目。問題解決にあたっては、まずは問題が起きる仕組みをしっかり分析するべきです。行政を見ていると、解決のための「具体的アクション」の策定に気持ち向かい過ぎ、原因分析が全くなされていないように見えます。
「我々は何をすべきか」という問いは「願望や陳情」のリストを生みますが、これでは問題解決に至らないことは何度も経験されていることです。
このようにならないためには、問題解決にあたって、原因を分析するフェーズと解決策を立案するフェーズに明瞭に分離すること、あるいは部署を完全に分離して実施することが有効と思われます。
2点目。課題分割には注意が必要です。「大きな課題を、いくつかの小課題に分割して、それぞれの小課題を解決すれば全体の問題が解決する」というアイデアは一見良いように思えますが、危ういです。たとえば「研究不正の問題」「進学率低下の問題」「アカハラの問題」はお互いに共通の原因から生じていますが、これらの問題を個別の担当者に割り振るとどうなるでしょうか?これらを包括的に解決可能な方策ではなく、個別の対症療法が生まれてしまいます。
課題を分割して、それぞれに担当者に割り振るにしても、それぞれの担当者に、複数の問題を同時に分担させることが必要です。
3点目。研究力が低下する一方で、研究にのめり込み過ぎて大学の教育力も損なわれてきていることも見逃せません。教育力を向上させれば研究力も向上するはずです。
日本の教育力を向上させるために、書籍「大学で学べる科学的素養」を上梓しています。
こちらは、大学で身につけるべき「科学的素養」を整理明文化したもので、修得状況の判断が難しい「能力や技術」を大学の修得目標とするのではなく、さまざまな汎用能力の基盤である「科学石素養」を修得目標とすることを提案しています。
この本の序章はこちらでお読みいただけます。こちらもぜひお読みください。
4点目。学生の意欲向上を図るため入試や面接で「推し研」を問うことを提案中です。推し研とは「ひとに推したい(すすめたい)ような、すごいなとおもう研究成果」を指します。「あなたが感銘をうけた発明や発見はなんですか?」「どこに感銘を受けましたか?」がよく聞かれる質問になれば、それに対する答えを用意するうちに、研究においては新しい発見や発明が重要ということが自然と理解できるようになります。また、いつかは自分もこのような発明や発見をしたいという形で意欲が生まれるはずです。
日本の教育力と研究力を向上させ、豊かな日本を取り戻そうではありませんか。
「大学で学べる科学的素養」の序章
この記事は、書籍「大学で学べる科学的素養」の序章相当部分です。本編は、アマゾン出版より公開中です。
https://amazon.co.jp/dp/B0D7H6PRRR
はじめに
科学的素養は、科学におけるマナーのようなものである。このマナーを守ると、コミュニケーション能力、課題発見・解決能力など様々な能力が身についたり、何かをより良く理解したり、理解に基づいて現状を改善したり、新しい概念を打ち立てたり、批判的思考をしたり、生産的な議論をする助けになる。マナーは本で学べるのと同じように、科学的素養も本で学ぶことができる。科学的素養は、体験によって身に着ける必要がある点でもマナーと似ている。 科学的素養は、もともと大学の研究室に所属していれば、多数の教員や先輩に囲まれる中で自然と身についたものであった。しかしながら昨今の競争主義の台頭や研究室小型化によって、自然と科学的素養が養われる環境が失われつつある。本書は、日本の教育力と研究力の向上を願って科学的素養を整理明文化し公開するものである。 研究者を目指す高校生、大学生からはじまって、研究室に所属する大学院生、指導に苦労する大学教員、大学の教育力・研究力向上の実効策を生み出したい学長や理事など大学運営者、科学技術政策に関わる官僚や政治家の方々、さらには企業の研究者や採用担当者の方、科学に興味がある一般の方、大学教育の社会的意義に疑念を持つ方、大学に行かない方まで、広くお読みいただきたい。
「科学的素養修得のすすめ(仮)」序章
日本の大学における教育を確実に向上させる方法があるとしたら、「科学的素養」を明文化することであろう。科学的素養はこれまで明文化こそされてこなかったものの、大学・大学院の研究室で、研究をするうちに自然と身についたものである。ただ昨今、科学的素養を身につけないままに、大学を、あるいは修士課程を、はたまた博士課程を卒業してしまうケースが増えているように思われる。理由はいろいろあるだろうが、競争主義や任期制を研究現場に持ち込んだことによって、大学教員の気持ちが研究成果に向かい過ぎ、論文成果につながる技術や能力あるいは知識に偏った浅い教育が学生に対してなされるようになったことが考えられる。また、2016年には文部科学省が「三つのポリシーの策定と運用に係るガイドライン」を設けて、大学に三つのポリシーの策定を求めたところである。大学は、このガイドラインに従って「どのような力を身に付ければ学位を授与するのか」に関わるディプローマポリシーと、その力を教育課程の中でどのように養うかを記したカリキュラムポリシー、そして受け入れる学生に求める学力に関わるアドミッションポリシーを定めることとなった。残念なことに、ここでも「力」つまり技術や能力に偏ったポリシーの策定を大学に促してしまう結果となり、科学的素養には光が当たらなかった。 大学・大学院教育で身につけることができるのは単なる能力にとどまらない。本書で述べるような、例えば自然科学研究において「権威を論拠として物事が正しいかどうかを判断することを良しとしない」(権威主義の否定)ことは、力や能力あるいは技術に分類されるものではなく、信念・価値観あるいは従うべき原則や態度、行動や考え方の指針に分類されるものである。能力獲得に主眼をおいたポリシー策定のガイドラインは、様々な能力や技術の基盤であり明文化可能である科学的素養ではなく、その本質の明文化が困難である様々な能力や技術を掲げる方向に大学を誘導してしまった。
「科学的素養」とはなにか
本書では、自然科学に関わる研究を実施する人材が固持すべき信念・価値観、あるいは従うべき原則、態度・行動・考え方の指針となるものを「科学的素養」と呼ぶ。本書で扱う科学的素養は、様々な能力、例えば思考力、課題発見能力、課題解決能力、コミュニケーション能力といった様々な能力の基盤となるものである。科学的素養がこれらの能力の基盤として、重要である理由を本書では説明する。例えば「権威主義の否定」は、自ら考えを積み上げて理解すること、自ら判断することにつながる素養であり、思考力など各種能力の基盤となることは容易にご理解いただけるだろう。
「科学的素養」は明文化が可能
本書で示すように「科学的素養」は、その本質を明文化することが可能であり、文書を読むことで理解することができる。またある人の科学的素養の修得状況を客観的に測ることができる。方法は至って簡単である。それぞれの科学的素養がどのようなものであるか、説明を求めれば良い。さらに加えて、本書で示すようなポイントに着目して、修得状況を判断することもできる。 これと対比されるのは、様々な能力、例えば「思考力」や「課題解決能力」や「コミュニケーション能力」のような能力である。これら能力がどのような能力であるかを明文化し説明することはできるかもしれないが、説明を受けてそれら能力が素晴らしいものであることが理解できたとしても、残念ながらこれら能力が向上するわけではない。また能力の習得状況を客観的に測ることが難しい。 現在、研究意欲を向上させる目的、あるいは大学院進学をうながす目的で、短絡的にこれら能力が研究を通じて得られるものであるとして語られているように見受けられる。上記のような能力は研究に必要なことは間違いないが、必要だからと言って、必ずしも身につくわけではない。大学院に進学した人材の大多数が、修得できるとして掲げた能力を満足に修得できているだろうか?また、修得できたかどうかを客観的に知る方法はあるだろうか?もし客観的に知ることはできないのだとしたら、あたかもその能力が獲得されることが自明であるように語るのは無責任ではないだろうか?
能力の基盤である「科学的素養」に着目した教育の再興が必要
今、大学院教育の空洞化が起きている。教育は、各研究室に委ねられ、望ましい教育がなされている研究室もあるだろうが、教員は予算獲得と業績競争、さらには任期に駆り立てられて、教育よりも研究に心を割く状況ができ上がってしまっている。教育論には滅多にお目にかからないし、「伸びる学生は放っておいても伸びる。あとは放っておけ」というような教育論とも言えないような論が教育現場から聞こえてくる。はたまた教員が「学生にやる気がない。卒業さえできればいいと思っている」と嘆くだけで、解決策を持っていない。二十年前と同じである。本書で指摘するような「研究目的」が適切に示されない学位審査発表を学生がするケースも目に付くし、それが教育上なぜ駄目なのか、きちんと説明・指導できる教員は少なくなってきていると思われる。この二十年間、研究ばかりに集中し過ぎて、教育論の深化は停滞してしまっていると言えるだろう。教育論を発展させ、大学・大学院の人材育成力を高めなくてはならない。 昨今博士人材が必ずしもアカデミアに残らず、大学院を離れて、企業などで活躍することが強く望まれるようになってきている。実際、現状を鑑みれば、大学・大学院に所属していた学生が、実施していた研究を卒業後にも続ける割合は高くなく、また、大学・大学院で学んだ特定の研究分野で用いられる専門的な技術を、卒業後に使用することもそれほど多くないだろう。一方で、さまざまな能力の基盤となる「科学的素養」は、大学・大学院卒業後も有用である。学生に、専門知識や機器の取り扱い方、様々な実験手技を身につけさせことは重要であるが、社会全体の向上のために科学的素養を身につけさせることは、これらにもまして極めて重要である。本書で論理的に説明するように「科学的素養」を修得した人材は、社会における生産性が高くなる。これら素養を修得させることは、人材を育成して我が国の研究成果の質を高め、イノベーションによって豊かな国をもたらすことに寄与することになる。また、「科学的素養」を修得した人材は、そうでない人材よりも研究不正に手を染めないであろうことが容易に期待できる。我が国は研究不正大国の不名誉な称号を得てしまっているが、「科学的素養」の修得を教育機関で行うことはこの状況を改善する上でも重要である。
行政がすべきこと
古今東西、古くより教育は国を支える根幹であることが当然とされてきた。しかしながら昨今は国力の根幹が研究力であるとする考え方が主流となってきている。研究を盛んにすることは間違いではないだろうが、研究を盛んにしようとする勢いが増す一方でいつの間にか教育がおざなりになってしまっている。世界的に言っても研究推進と教育推進のバランスを取るべき時期に来ている。 学位のありかたについても認識の変更が必要である。博士の学位は「研究者として自立して研究活動を行うに必要な高度の研究能力等を身につけた者」に授与されるものであるとされているが、科学的素養は、研究能力の前提になるものであり、また修得状況を測るのが容易である。学位取得者の能力水準を確保するためにも能力審査に加えて、当然修得していることが期待される科学的素養の審査についても明示的に定めるべきである。 本書で述べる科学的素養を修得した生産性が高い人材を育てるには、教育課程において、まだ誰も明らかにしていないことを明らかにする研究、あるいは、誰も開発していない技術を開発する研究を、体験させることが必須である。運営費交付金や各種の競争的研究資金が大学に投入されているが、科学的素養を身につけた生産性の高い人材を多数育成するのであれば、このコストに見合うだけの経済効果、GDP成長につながるはずである。行政には、科学的素養を修得させることをミッションとして掲げ、そのための枠組み、すなわち学位審査項目の整備やディプロマポリシーなどポリシー改訂を実施するなどした大学に対する予算措置、教育基盤経費の大幅な増額を求めたい。
大学など教育機関がすべきこと
研究成果が偏って重宝される陰で教育がおざなりにされている現在、大学など教育機関は、本来の社会的役割が、教育によって人材を輩出することであることを今一度思い出し、大学生・大学院生にこれら素養の修得を積極的に促すべきである。そのためには、大学・大学院では、教育再興と本書にまとめた科学的素養を修得させることを大学のミッションとして掲げるべきである。 具体的なアクションとしては、まずは各種ポリシーなどに科学的素養を織り込むことが肝要である。さらにディプローマポリシーと対応する形で、学位審査項目に科学的素養の修得状況を取り入れることが重要であろう。本書の終章に、学位審査項目案と、審査項目を設定するための提案書の雛形を示すが、学位審査項目を整備して公開することで、学生はこれらを真剣に身に付けようとするようになり、科学的素養を円滑に修得させることが可能となるだろう。 このような審査項目整備は、審査する側である教員の質も高めることとなる。研究をしていると、教育経験なく突如として教育に携わるようになり手探りで教育を始めることが普通であると思われるが、審査項目が学部や研究科などで整備されていれば、どこに着目して学生を伸ばせば良いかを知る助けとなるからである。 またさらに昨今、学位の質の担保が課題とされているが、科学的素養の修得状況を学位審査項目に含めれば、学位取得者の質を一定程度担保することができる。課題発見能力など各種の能力が十分に高まっているかどうかは、容易に審査することはできず、ともすれば十分な能力がないのに現場のおざなりな採点によって学位が授与されてしまうことが懸念される。一方、明文化が可能な「科学的素養」については、学位授与審査会などでこれら「科学的素養」の各項目を適切に理解しているか口頭試問によって試すことができる。この試問は適切に実施されることが一定程度保証される。なぜなら、学位取得者はキャリアを通じて「科学的素養」が本当に身についているかどうか注目されることになり、もし身についていないと見なされるようになれば、学位を与えた大学の「科学的素養」の審査力への信頼が問われるからである。 また本書では科学的素養についての議論に基づいて、様々な研究力、教育力向上のためのアクションを提案する。これらの実行を検討していただきたい。例えば所属教員に、授業において「科学史の中に知識や技術を位置付けて教える」ようにうながすことである。このような授業は、受講学生の「私も何か重要な発見をしたい」という意欲を向上させイノベーション気質を養うことができる。「私も何か重要な発見をしたい」という意欲が高まり、この意欲に基づいて研究に向かう人材は、研究不正に手を染めないことも十分に期待できる。 また、個々の学生への指導において「研究目的」を教員側から明示されているかチェックする制度を導入することで、教育の質を向上させることができる。さらに、学生実習のレポートの提出区分を二つに分けることで、学生実習と進歩が重視される研究は本質的に異なることが、学生生活を通じて養われることになる。これらアクションの論理的背景については詳しくは4章をご覧いただきたい。またこれらのアクションを実際に大学内で起こすことを容易にするため、最終章にて提案書案を提供しているのでご活用いただきたい(ウエブサイトからダウンロードすることもできる)。
大学教員へのメッセージ
昨今、研究をしていると教育経験がないうちに助教や准教授や教授などのポストに就き、突如として教育にあたるようになり手探りで教育方法を模索し始めるケースも多いと思われる。そのような教員の方々には、ぜひ、本書から教育方針を得ていただきたい。 特に、研究室所属学生の低意欲に悩まされている教員が多いように見受けられる。所属学生に、科学的素養がどのようなものであるか、また、各素養がそれぞれどのような能力の基盤となっているかを説明し、さらに研究室での体験を通じて科学的素養を身につけることができることを説明すると、研究活動への意欲向上が見込める。 またさらには、授業のあり方への工夫(知識や技術を科学史の中で取り扱うことで、意欲を向上させ、イノベーター気質を養うことができる)や、指導学生への「適切な」研究目的の明示と目的達成のための手段は随時置き換えて良いことを言い続けることが、意欲向上に重要である(適切な目的設定と不適切な目的設定については四章で述べている)。 また今後、本書が広がるにつけ、学生に科学的素養を身につける場としての大学・大学院への期待が高まるはずである。是非、科学的素養を修得させるために本書を活用していただきたい。
大学生・大学院生へのメッセージ
受験勉強では正解があることばかりを教わるものと思われる。なぜ正解があることばかり教わるのかは、入試問題を出題する側の立場に立てばよくわかる。出題側は正解が確実に定まる問題を出題したいのだ。なぜかと言えば、もし議論が分かれているような事柄について出題をすると、AだけでなくBも正解ではないか?といった議論が始まることになり、合格判定のやり直しや、最悪の場合としては謝罪記者会見などが頭をチラつくからである。このような事情を背景に、受験用の参考書には、正解がはっきりしたことだけが並ぶことになり、勉強は効率良く正解を覚えるスタイルの勉強になりがちなのだと思われる。 このような勉強にすっかり馴染んだ大学生・大学院生が、研究室に所属して未知の現象が起きる仕組みを解明したり、未知の化合物を同定したりする研究をしようとすると、難しい状況に陥ることがある。先生は、何が正解かはわからないというし、求めていた答えが見つかったとしても、しばらくすると必ずしも正しい答えではなかったことがわかったりするのだ。正解を効率良く学ぶことが勉強だと思っている学生には、未知なるものに取り組む研究活動は何かを学ぶ上で非効率的に思えるなどして、大変な思いで研究することが自身にとって意味があるのか分からなくなってしまうこともある。 未知なるものに取り組むことが、様々な能力を磨く上で有用なのであるが、言われるままの作業に終始したり、議論の結論部分だけを鵜呑みにしたり、誰の言うことを聞くか考えたりしているようでは、成長は限られたものになってしまう。学びの意義を最大化するためにも、ぜひ本書をお読みいただきたい。 また、発表やディスカッションにおいて要領良く何かを伝えようとして、正解がないことなのにあたかも正解があるかのように話してしまって、うまく伝えられないということが起こる。よくわからないことについて情報を伝えるコミュニケーションには、それなりの技法があって、それを守らないとうまい具合に議論ができなくなるのだ(これについては二章で論じている)。いったん身についてしまった正解主義を抜け出すのは容易ではないかもしれないが、本書が受験勉強による正解主義の弊害から脱し、様々な重要な能力の基盤となる科学的素養を身につけ、未知なるもの現在よくわからないものに対する理解を深めていくことができるようになる一助となれば幸いである。 また指導を受ける研究室を探す際には、科学的素養について理解をした上で探すと良いだろう。実際問題として、権威主義的な指導の仕方をしてしまう教員、研究目的を適切に設定できない教員、議論の作法を守れずに「おまえ」の話を始めてしまう教員も一定数いるのである。科学的素養について理解していれば、問題のある研究室を避けることができるかもしれない。 またもし大学院を選ぶ機会があるならば、学位審査の審査項目を取り寄せて眺めてみると良いだろう。そのような審査項目がなく、個々の審査員の総合的判断に任されていることもあるが、明確な基準がなく、学修目標がないということであって、一定の注意が必要であろう。また審査基準としては、知識や能力といった客観的に審査するのが難しく、その方向に向かってどう努力すれば良いか分からない項目ではなく、本書の最終章で示すような項目が並んでいることが理想である。 また、将来、大学などで教員になることを考えるのであれば、ぜひ本書を教員目線で読んでいただきたい。指導ポイントが見えてくるはずである。
高校生へのメッセージ
科学には正解はない。一方で学校では何かと「正解」があることばかりを習うことと思う。いや実は、あたかも将来にわたってずっと正しいことであるかのように教科書に書かれているだけで、本当は正しいとも限らないものを正解として教わっているのだ。「科学的に将来にわたって永遠に正しいこと」は存在せず「現在、科学的に正しいとされていること」が存在する。教科書には断定的に正しいとしていろいろなことが書かれているとは思うが、それは、これまでになされてきた膨大な観察事実を、現在最もうまく説明すると考えられている解釈にすぎないことに注意するとよいだろう。 研究者の言うことをよく観察してみると、「〜とされている」「〜と考えられている」「〜と言われている」といった言葉がよく使われることに気がつくだろう。「〜」のところには、一般的に事実とされていることが入る。例えば、「地球は丸い」という言葉が入る。これは「地球は丸いと考えられていること」自体は事実だが、「地球は丸い」こと自体は事実としては扱っていない表現である。「地球は丸い」ことを事実として扱わず、「地球は丸いと考えられていること」を事実として扱う。このように扱うことで、更新の余地を見出すのが研究者である。教科書に正しいことして書かれていることに、密かに「〜と考えられているが厳密に正しいかどうかは別」とつけて読んでみると、そこに発展性を見出すことができるかもしれない。 上述のような物事に対して決まった正解があるように錯覚している世界には「よくわからない」ことが存在せず、研究目的が生まれない。なぜなら研究において、研究目的は何かについて「よくわからない」ことをから生まれるからである。目的が見つかれば、目的達成のための満足感のある勉強をすることができ、自然と様々な能力が伸びる。本書を読めば、正解があるように錯覚している世界を脱して、自然と様々な能力が伸びるようになるきっかけになるだろう。
科学的素養の概略
本書では科学的素養を以下の七項目に整理した。研究・教育に携わっていると「科学的に問題がある」と考えざるを得ない状況がしばしば訪れる。そのたびに、それがなぜ科学的に問題があるのかを考えるうちに、これらの七つの項目が整理されることとなった。筆者にはこれらの項目の一つあるいは幾つかの組み合わせによって、研究人材が示すさまざまな問題のある言動について、それがなぜ問題があるのかをおおよそうまく説明できるように思うが、今後これらをベースとして、項目の整理と拡充、更新がなされることを期待している。 以下がその概略である。かっこ内には各素養が基盤となる能力や人材の気質を記した。 1 権威主義の否定 権威を、命題の真偽判定に利用しない(思考力、課題発見・解決能力) 2 課題発見のための議論構造 観察を述べてから解釈を述べる(課題発見・解決能力) 3 原理原則・本質の理解に基づいた理解と説明 原理原則を積み上げるようにして理解をする(思考力、課題発見・解決能力) 4 研究の進歩主義の理解と実践 新しい知識あるいは技術を生み出すことが重要(創造力、進歩を尊ぶ価値観、意欲的向上、イノベーション気質の養成) 5 議論の作法 議論の対象を定め、生産的な議論を行う(コミュニケーション能力) 6 研究の公共性の理解 他の研究者が自分のデータから何かを発見するかもしれない(コミュニケーション能力) 7 問題解決に資する「原因」とそうでない「原因」の区別 問題解決につながる原因が大事 (課題発見・解決能力)
修得には体験が必要
大学・大学院は、実践を通じて、科学的素養を修得する場である。これら科学的素養は、就学者に事前に提示すべきものである。それにより就学者は自分がこれから何を学び、修得すべきなのかを事前に知ることができる。就学者にとってまず重要なのはこれらの素養をしっかり頭で理解することである。ただし、サッカーの技術書をいくら読んでもサッカーは上達しないのと同じように、これらの素養を頭で理解しただけでは修得することはできない。就学者は日々の実践を反復する中でこれらを修得する必要がある。これら素養は努力すればするほど時間をかければかけるほど深く修得することができるものである。これは一年よりも三年、三年よりも六年、サッカーを練習した人がより上手にプレイできることと同じである。
科学的素養は生産性が高い人材の育成に有用
近年、大学や大学院の存在価値が問われている。企業の就職活動においても、大学で何を学んだかよりも、どの大学に入学したかが採用活動において重視されているという残念な状況のようだ。科学は、ものごとの本質を理解し、様々な技術の開発を推進する上で極めて強力な方法論であり、科学的素養は本書で説明する通り、修得した人材の生産性を著しく向上させる。自然科学を扱う大学、大学院は「科学的素養」を学生に教え、また客観的な指標によって修得の状況を判定および保証することで、これらを修得できる場として自らの社会的存在意義・存在価値を盤石にすることができる。産業界は科学的素養を身につけた博士人材の活躍を期待して活発に採用するようになることが期待される。 いずれ、「科学的素養」を教える大学・大学院を卒業した人材であれば、権威主義的な意見をせず、現象を述べてから解釈を述べる順番を守り、いろいろなことについて一つ一つの原理原則を大切にしながら着実に理解を深め、議論の作法を守り、進歩を尊び、仮説検証にもへこたれず、都合の良いエビデンスをチェリーピッキングすることをよしとせず、問題の解決に役立つ原因とそうでない原因を区別することができる、生産性が高い人材であるだろうと、強く期待されるようになるだろう。
筆者の狙いと動機
本書の狙いは、以前は研究室内で、あるいは研究コミュニティの中で、緩やかに共有されていたはずの科学的素養を明文化することによって、日本の大学・大学院における教育の質を向上させることにある。「科学的素養」を修得させることが多くの大学・大学院などのミッションとして取り入れられ、人材育成によって日本がよりイノベーティブな豊な社会になることを祈念している。 日本の研究力が低迷していることが様々なデータから言われている。研究現場にいる人にあっては、身近なところで研究力が低下していることを実感していることであろう。日本全体で研究力を向上させイノベーションを活発にすることが、経済活動を活発化させ、我が国の将来を豊にすることにつながるであろうことに疑いはない。研究力を向上させるには、研究現場を俯瞰しつつ、様々な観点からの施策が必要である。筆者はこれまで、研究現場の研究力がどのようにして低下しているか、その仕組みを説明するとともに、この仕組みに準じて解決策を提案してきた(詳細は拙著「日本の研究力低迷問題の原因と解決方法」をご覧いただきたい)。この書の次編にあたる本書は、人材育成、教育に焦点をあてて、日本の教育力、ひいては日本全体の研究力が向上していくことを願って上梓するものである。
注: 本文書は、書籍「大学で学べる科学的素養」の序章です。実際の出版物とは多少異なる可能性があります。いろいろ意見を発信していますのでGenomeMatcherアカウントのフォローをよろしくお願い致します
収益の一部は、日本の研究力と教育力の向上のための筆者の活動資金として使わせて頂きます。特に、資金を集めて政治家に献金して、学術行政の変更・改善につなげていきたい考えです。筆者が学術行政関連の制度をどのように改変すべきと考えているかについては拙著「日本の研究力低迷問題の原因と解決方法」をご覧ください。 こちらについても序章を公開しています。
かけ算の順序をめぐる議論についての考察
はじめに
かけ算にはしかるべき順序があり、その順番を守った式を書かないと、答えがあっていたとしても式に×がつけられるとのことです。
これは小学校2年生の算数の問題のことで、例えば、以下のような問題です。「3人の子供がいます。全員に7本ずつ鉛筆を配ります。全部で何本鉛筆が必要でしょうか?」答えはもちろん21本です。しかし式として3x7と書くとこの式には×がつきます。式は7x3でなければならないといいます。
このことをめぐって、ツイッター(現𝕏)で議論が始まり、はや20日が経ってもいまだに議論が続いています。ざっくり言えば議論は「掛け算に順番はない」と考える人々(順番なし派)と「掛け算の順番を守るべき」と考える人々(順番あり派)の対立構造の中で繰り広げられています。本記事では、まず数字の順番をどのようにしたら×がつかない式を書くことができるか説明します。続けて、式が×にされる根拠(制度的背景)を説明します。またいくつかの議論の典型例について筆者の考えを述べます。また最後に、この問題について生産的な議論がなされるよう、議論の対象を絞ることを提案したいと思います。
×にされない式の書き方

【注意】ここでの説明は、×にされない式の書き方がわからないで困っている人向けです。
5つのリンゴが乗ったお皿が4つあります。全部でいくつリンゴがあるでしょうか?
×にされない式を書く考え方のポイントの1つ目は、まず「足し算の式を考える」ことです。この絵にあるリンゴを数えるなら、5 + 5 + 5 + 5 ですよね。5 + 5 + 5 + 5は、5が4つですね。この時この式は5 x 4と表します。「5 x 4」という式は5の4倍のことと理解しましょう。
4 x 5と書くとこの式は×にされます。なぜなら4x5は4 + 4 + 4 + 4 + 4のことなのです。5つのリンゴが乗ったお皿が4つあって全部でいくつ数える場面では、5 + 5 + 5 + 5として数える方法は、4 + 4 + 4 + 4 + 4と数える方法よりも自然ですよね。この場面で、このリンゴを4つずつ数える*1人がいるかもしれませんが、かなり変わった人であると言えるでしょう。
もう一つ例を出します。「3枚の1000円札があります。全部で何円でしょうか?」この問題は1000 + 1000 + 1000で答えが出ます。1000の3倍ですね。これを表す式は1000 x 3です。一方で3 x 1000は3を1000回足し合わせる場面を意味します。
2つ目のポイントについては、以下のように考えてください。5個の4倍は、5 x 4と表すのですが、5個の4倍はいくつでしょうか?20個ですね。20枚ではありません。4枚の5倍なら4x5と表し、答えは20枚です。20個ではありません。1000円の3倍は、1000 x 3と表して3000円です。3枚の1000倍は、3 x 1000と表して3000枚です。xの前の'もの'を、xの後の数倍すると考えてください。5 x 4は5の4倍のこと(4の5倍ではない)。1000 x 3は1000の3倍のこと(3の1000倍ではない)。
これがわかれば、×にされない式を書くことができます。
なお、数の順番については、「1つ分の数」x 「いくつ分」と教えることもあるようです。お皿に5つのリンゴが乗っていて4皿ある場合、「ひとつ分の数」が5、「いくつ分」は4にあたります。ただ、筆者としてはこの教え方については深刻な懸念があると思っています。機械的に文章題から「1つ分の数」を探し、次に「いくつ分あるか」を探し、この順番に掛け合わせるような学習の仕方をしてしまう子供がいないとも限らないからです。上述したような、足し算と掛け算の対応を教えた方が、小学校2年生には理解しやすく適切です。
×にされる根拠
小学校の教諭は、なぜ掛け算の中の数字の順番にこだわるのでしょう?答えは簡単です。学習指導要領というものがあって、教諭はそれに従わなくてはならないからです。その中には、次のように書かれています。

ここで特に関連するのは(イ)です。その前に書かれたところも含めて表現すれば、小学校の教諭は「乗法が用いられる場面を式に表すことができるように指導する」必要があるのです。「場面を式に表す」という表現に気を付けてください。
教諭は生徒が場面を表す式ができていないと判断した場合、指導のために×をつけるのです。
学習指導要領解説
学習指導要領は簡潔にまとめられており、乗法が用いられる場面を式に表すとはどういうことか、乗法の意味とは何か、については書かれていません。
そこで登場するのが学習指導要領解説です。学習指導要領解説では、指導要領にあるそれぞれの項目についての意味を詳細に解説しています。
順番なし派が「先生は学習指導要領に従う法的義務があるが、学習指導要領解説に従う義務はない」と主張することがありますが、学習指導要領解説にある説明を顧みずに独自の解釈をして教えていた場合には、指導要領で求められた指導と言えないような指導になってしまうこともあるでしょう。教諭は学習指導要領解説を読んで、そこに述べられた意図を十分に汲み取る必要があると思います。
議論例 その1: 答えをどうやって出すかは自由だろう?
「答えの出し方は自由な発想に任せるべきで、式に×をつけるべきでない」という主張が「順番なし派」からなされることがあります。
この主張の背景には、「式は、問題の答えの出し方を書いたものである」という考え方があります。この考え方は、学習指導要領にある「乗法が用いられる場面を式に表す」ことからずれていることに気をつけてください。学習指導要領が求めているのは、「場面を式に表すこと」であって、「答えを求める過程を式として書き表すこと」ではありません。
議論例 その2: 乗法の交換法則については、指導要領解説に書かれている。
「順番なし派」からは、乗法の交換法則 (AxBはBxAに等しい)があるのだから数字の順番はどちらでも良い、とする主張がなされます。交換法則が成り立つからといって、数字の順番を逆にしてしまったら「乗法が用いられる場面を式に表す」ことができていないことになります。
また、「乗法の交換法則を認めないのか」といったことも言われますが、指導要領解説には、以下のように乗法の交換法則に関する記述が多数あります。「乗法の計算の結果を求める場合には,交換法則を必要に応じて活用し,被乗数と乗数を逆にして計算してもよい」とはっきり書いてあります。
式を作る段階と、式の計算結果を求める段階を分けて考えるとわかりやすいでしょう。式の計算結果を求める段階では交換法則を活用して良い、ということです。




議論例 その3: 学習指導要領解説には、掛け算の順序について書かれている
学習指導要領解説には、掛け算の順序については書かれていない、という誤った主張がありました。学習指導要領解説には6ヶ所の記述があります。
ただし残念なことに最初の2つの記述には問題があり、順番を逆にしても構わないと曲解されかねない表現になっています。
しかし、それ以外の4ヶ所は、「掛け算の順番あり」と読み取れる記述です。指導要領解説をよく理解して指導するなら、「掛け算の順番あり」の立場から指導する以外にありません。
この2ヶ所の表現を取り上げて、「逆でも良い」と主張する人もいますが、他の4ヶ所で述べられていることと整合的ではありませんから、曲解に基づく無理な主張と言えるでしょう。
問題の記述箇所について説明します。
問題の記述箇所1
そこで,「1皿に5個ずつ入ったみかんの4皿分の個数」を乗法を用いて表そうとして,一つ分の大きさである5を先に書く場合5× 4と表す。
「一つ分の大きさである5を先に書く場合」とあるのだから、「一つ分の大きさである5を後に書く場合」があっても良いことになる、という解釈が可能なのがこの記述の悪い点です。
そこで,「1皿に5個ずつ入ったみかんの4皿分の個数」を乗法を用いて表すには,一つ分の大きさである5を先に書き、5× 4と表す。
とすれば指導要領解説の中で順番ありとしていることと、より整合的になります。
問題の記述箇所2
このときも,一つ分に当たる大きさを先に,倍を表す数を後に表す場合,「2mのテープの3倍の長さ」であれば2× 3と表す。
「倍を表す数を後に表す場合」とあるのだから、「倍を表す数を前に表す場合」があっても良いことになる、というような解釈が可能なのがこの記述の悪い点です。
このときも,一つ分に当たる大きさを先に,倍を表す数を後に書き,「2mのテープの3倍の長さ」であれば2× 3と表す。
とすれば指導要領解説の中で順番ありとしていることと、より整合的になります。
下に示したのは指導要領解説中の掛け算の順序について書かれている箇所に下線①~⑥を引いたものです。赤下線部①と②は、上記の問題がある箇所。緑下線部③から⑥は「順序あり」でなければこのような記述にはなり得ないと考えられる箇所です。

議論例 その4: 公式暗記の弊害が起きないように指導すべき
「順番なし派」から「順番を公式のように暗記して式を作る悪弊が広がる」との主張がありました。公式の暗記ではなく、ちゃんと理解できるように指導すべきところです。これは、掛け算の順序だけの問題だけではなく、あらゆるところでそうならないように気をつけるべきところと思います。
議論例 その5: 掛け算の順序は、数学の定義ではない
掛け算の順序は、数学の定義だ、とする主張が順番あり派からなされることがあります。掛け算の順序は、いわば日本のローカルルール、しかも小学校2年生の算数で指導するときにそうしましょう、というかなり限定されたローカルなルールです。厳密な数学的な意味での定義ではありません。国際的にもこの順番を守ることは常識的ではないでしょう。
議論例 その6: 順番を守っていない例がたくさんある
スーパーのレシートで3個x100円のように書いてある。YouTube動画で5匹x4本=20本などとしている。学年x10分 勉強せよという表現はどうなのだ?という主張が「順番なし派」からなされるようです。一般生活における、これら順序の是非について考えたい人は考えればいいですが、筆者は順序を守っても守らなくてもいいと思います(筆者は100円 x 3個の方の表現を好みますが、人に押し付けるほどではありません)。掛け算の順序の問題は、あくまでも小学校2年生を対象とした算数教育において、どう指導するかについての問題だと思います。
議論例 その7: 指導要領や指導要領解説は教諭向け(追記: 2023年12月11日)
指導要領や指導要領解説は教諭向けであって、児童はそれに従う義務はない、とする議論がされることがあります。本記事での議論は、掛け算を小学校2年生に教えるのにあたってどのように指導すべきかと言う話であって、児童が指導に従うべきかと言う議論は別の議論です。私の知る限り、児童が指導要領や指導要領解説に基づいた教諭による指導に従うべき義務があるとする根拠規定はありません。従うも従わないも児童の自由でしょう。ただし、教諭は、順番が守られていない式に×をつけるなどして指導する必要があることには変わりがありません。
掛け算の順番は、約束ごとである
数学的に厳密な意味で、掛け算に順番があるわけではありません。要するに、掛け算の順番は文科省が日本の小学校2年生の算数教育に導入した約束ごとです。ただし、以下の表現からは、文科省としては、文科省が導入した約束ではなく「日本語圏での順序」であると考えているように伺えます。
なお,海外在住経験の長い児童などへの指導に当たっては,「4×100 mリレー」のように,表す順序を日本と逆にする言語圏があることに留意する。
順序についての約束ごとを導入する意義
この約束ごとを導入する、小学生2年生に対する教育的意義としては、何が考えられるでしょう?
- 場面をより良く表現した式を作ることができるようになります。このような約束ごとを守ることで、約束ごとを守らないよりも、一定の秩序に基づいた式で場面を表現することが可能になります。
- 「式は単に答えを出すために書くのではなく、その場面を自然に表すことが大事なんだ」という学びは、式を読みやすく書き表す(意味を汲み取りやすく書く)ことに気をつけるようになるきっかけになると期待できます。
- 「ちゃんとした理解をすれば、バツにならない式が書ける」という経験を小学2年生がすることは、そこにあるルールや考え方をちゃんと理解することの重要性を身をもって知るということであり、その後の学びの質を向上させる上で重要な役割を持っていると思います。
筆者は、特に(3)が大事だと考えています。「日本の研究力低下」が言われていますが、その原因の一つとして、いわゆる正解主義や答えを安直に求める勉強法によって、大学生、大学院生の考える力が落ちていることがあるように思えます。
順序についての約束ごとを導入することに対する懸念
ご意見があれば、コメント欄にお願いします。
生産的な議論のために
掛け算の順番についての議論を「順番はありか・なしか」で議論すると議論対象が大きすぎるのでしょう、議論が発散してしまうことをよく見かけました。議論の論点をもっと狭く絞って議論すべきと思います。 議論すべきなのは、「小学校2年生の算数教育において、掛け算の順序指導をすることは、小学校2年生がこれからいろいろなことを学んでいく上で、有用か」という点だと思います。有用である点、有害である点を拾い上げ、総合的に判断して順序指導をすべきかどうか考えるべきと思います。
ただし、これをすべきなのは指導要領解説の編纂に携わる方々であると思います。今の指導要領、指導要領解説のもとでは、教諭は順序指導をする必要があります。これらの改訂を待たずして、「順番なし」を強く主張するのは、小学生、保護者、教諭の間の無用な軋轢を高めてしまう懸念があると思います。
終わりに
ツイッターでのやり取りにおいて、議論対象ではなく議論をしている相手についての言及が目立ちました。議論の対象を定め、相手についての話はしないことが、生産的な議論には不可欠だと思いました。
最後に、非常に大変な環境の中、小学生の指導にあたられている教諭の方々に敬意を表して、本記事を終えたいと思います。
余談1
英語では、7x3を、seven times three あるいは、seven multiplied by threeのように読むと思います(他にもseven three、あるいはseven lots of three)。「3人の子供に7本の鉛筆を配るのに必要な鉛筆の本数」を求める式について、7x3と書いて、seven times three (あるいはseven three、seven lots of three) と読んだり、あるいは、3x7と書いて、three multiplied by sevenと読んだりしたらどうでしょう? おそらく「それ違うよ」と言われるシーンではないかと思います。 7x3と書いても、3x7と書いても良いが、式を読み上げるときには注意をしていると思うのですが、詳しい方いませんか?
- seven times three: 3の7倍 (日本の順序で言えば3x7)
- seven three: 7つの3 (同 3x7)
- seven lots of three: 7つの3のまとまり (同 3x7)
- seven multiplied by three: 3倍された7 (同 7x3)
余談2
日本語では、7x3を「7の3倍」と考えるのが普通だと思います。もし日本語で、7x3を「7倍された3」と考えるのが普通だったら、掛け算の順序指定は逆になっていたのではないかと思います。
余談3
筆者が子供の頃、算数でつまずいたことを思い出しました。つまずいたのは=(イコール記号)の意味を理解していなかったからです。イコール記号を、「答えを出しなさい記号」と思っていたのです。あたかも「日本で一番高い山は?」と言うときの「は?」と同じものだと思っていたのです。算数で同じようなつまずき方をしている児童がいるかもしれません。「これは答えを出せという記号ではないんだよ」と教えてあげてみてください。
余談4
問題の2つの記述箇所については、文科省に修正要望を出しました。改訂時に変更されることを期待しましょう。
*1:お皿の左下に4つ、下中央に4つ、右下に4つ、左上に4つ、右上に4つ、のような数え方も可能ではあります。
「世界を凌駕する」研究大国の作り方。研究力を低迷させる制度政策が生まれる理由と解決方法
~研究力低迷の背後にある政策課題設定のあり方の見直しの提案~
本記事
本稿では、日本の研究力低下問題に対処するための政策課題設定の改善方法を提案する。具体的には、科学技術・学術政策研究所(NISTEP)の独立性を強化し、内部に民間有識者会議を設置することを提案する。これにより、官僚の無謬性による柔軟性の欠如や財務省の影響力が軽減され、問題に対する理解が深まり、効果的な政策立案が可能となると期待される。本稿では、現行の政策サイクルとその課題、NISTEPのデータ取り扱いの限界、官僚の無謬性とその影響、提案の詳細と期待される効果について順に解説する。
現状の問題点: 日本の研究力低下
近年、日本の研究力の低下が問題視されている。国際的な競争力やイノベーションの創出において、他国に比べ遅れを取っており、このままでは日本の将来が危ぶまれるとの懸念が出ている。様々な施策が実施されてきたが、状況はむしろ悪化しているという現実がある。この問題の根本原因として、政策を作る仕組み自体に問題があると考えられる。今回の記事はその問題点に焦点を当てて考察する。
政策サイクルと課題設定の問題
政策サイクルは、政策課題設定、政策立案、政策決定(予算措置)、政策の実施、政策実施の評価というプロセスから成り立つ。これらのプロセスを適切に進めることが、効果的な政策を生み出すための基本条件である。
しかしながら、現状の日本の研究力低下問題において、政策課題設定の段階で問題が生じていると考えられる。例えば、調査結果により「博士課程への進学者が減っている」と指摘された場合、その原因を十分に考察しないまま、「博士課程への進学者を増加させる」という政策課題が設定されてしまう。これにより、表面的な問題は解決されても、本質的な問題が解決されないままとなる(実際には、教員多忙や学びの質が高くないこと、アカハラの蔓延、研究計画審査によって創造性の発揮よりも作業を求められる研究室環境、競争主義の持ち込みによって人間関係の構築が難しくなったことなど、複合的な原因によって進学者が減っていると考えられる。これらの問題は、経済的支援によって進学率を向上させてもなくならない)。
このような問題が発生する原因として、課題設定の段階で問題の根本原因を徹底的に追求できていないことが挙げられる。政策課題設定がうまく機能しないことで、政策サイクル全体が効果的に進まず、日本の研究力低下問題が改善されないという悪循環が生じている。
NISTEPのデータ取り扱いと問題理解の限界
現在、日本の科学技術政策に関する調査や分析は、NISTEPによって行われている。しかし、NISTEPのデータ分析には問題がある。データの取り扱いが非常に表面的であり、データから読み取れる明確な事実にしか焦点が当たらず、問題の本質や背後にある要因についての考察が十分に行われていない。
研究においては、不確かさを許容しながら仮説を立て、検証を行うことで問題に対する理解を深めることが求められる。しかし、NISTEPの現行の方法では、不確かさを伴う考察や仮説がほとんどなされず、問題理解の向上が図られていない状況である。
このような表面的なデータ取り扱いにより、目に見える不都合のみが政策課題として設定され、本質的な問題へのアプローチがなされないままとなっている。その結果、対症療法的な政策が生まれてしまい、日本の研究力低下問題の解決につながらないという事態が続いている。
官僚の無謬性とその影響
日本の官僚は、極めて優秀でありながら、間違いを犯すことを非常に恐れる性質がある。この無謬性が問題解決に役立つ柔軟な考察を阻害する要因となっている。官僚が無謬性を重視するあまり、データの分析や課題設定に対しても、リスクを回避し、既存の枠組みや表面的な情報に依存した取り組みが行われてしまう。
この結果、政策課題設定の段階で既存の枠組みに囚われたまま、問題の根本原因や背後にある構造についての深い洞察が欠如してしまう。この官僚の無謬性が、問題解決に向けたより効果的な政策立案や実施を妨げる要因となり、研究力低下問題の解決につながらないままとなっている。
官僚が無謬性にとらわれずに十分に実力が発揮できるような環境を考える必要がある。以下に2点を提案する。
提案1: NISTEPの独立性強化と有識者会議設置
問題解決のために提案するのは、NISTEPの独立性を強め、内部に民間人よりなる有識者会議を設置することである。この変更により、政策課題設定の主役が、形式上、官僚から民間人に移り、官僚が柔軟な考察をすることが可能となる。
官僚は賢い人たちであり、民間人を主役にすることで、無謬性のプレッシャーから解放されることが期待できる。これによって、問題の本質を追求し、解決に向けた効果的な政策を立案・実施することが可能となる。
提案2: NISTEPの独立性確保
財務省は日本の政策立案において強い影響力を持ち、科学技術政策にもその影響が及んでいる。現状では、NISTEPも財務省の影響下にあるため、政策課題設定が財務省の方針に沿ったものになりがちである。しかし、科学技術政策の課題設定は財務省ではなく、専門的知識を持つ者たちが主導するべきである。
NISTEPの独立性を強め、財務省の影響力を減らすために、以下のような方策が有効である。
有識者会議のトップを閣僚にする: これにより、政策立案の権限が閣僚に委ねられ、財務省の影響力が相対的に減少するだろう。
NISTEPの所属を内閣府に移す: 現在の文部科学省の下部組織から、内閣府に移すことで、財務省の影響力が直接及ばないような位置付けに変更することが可能である。
これらの変更を実現することで、NISTEPはより独立した立場で政策課題設定ができるようになり、科学技術政策における問題解決に向けた効果的な取り組みが期待できるであろう。
期待される効果と展望
上記の提案によって、NISTEPの独立性が強化され、政策課題設定のプロセスが改善されることが期待される。具体的な効果として以下のようなものが挙げられる。
問題理解の向上
無謬性の排除によって、問題に対する理解が徐々に深まる体制が構築される。いずれは問題の全体像がはっきりするようになる。
効果的な政策立案
問題理解が深まる結果、課題設定が適切になり、それに基づいた効果的な政策が立案されるようになる。
アカデミアの環境改善
本質的な問題解決に向けた政策が実施されることで、アカデミアの環境が改善され、研究者や学生たちがより良い条件で研究に取り組めるようになる。
研究力の向上
日本の研究力低下の問題は、次第になくなっていき、ついには「世界を凌駕する」研究大国となる。
政策立案の透明性向上
NISTEPの独立性が強化されることで、政策立案のプロセスがより透明化され、市民にとっても理解しやすくなる。
このような効果が期待される一方で、実際に提案が実現されるまでには、本記事で述べたような「政策課題設定のあり方の問題」に注目が集まり議論が盛んになること、政治主導でこれらの枠組みが整えられることが必要だと思われる。
日本の研究力を再び高め、世界を凌駕する研究大国へと至るには、この記事で述べたような取り組みが不可欠であり、さらなる議論や提案が期待される。
「強く示唆される」とは何か?
「示唆される」という表現
研究では「示唆される」という言葉が用いられる。英語での話になってしまうが、indicateという言葉がこの語に該当し、showとかdemonstrateとかより一段 下の表現だ。それほどはっきり示す証拠があるわけではないが、それなりに証拠がある場合に使う表現だ。これよりも弱い表現はsuggestであろう。
「示唆される」と「強く示唆される」の使い分けは?
さておき、学会などで「強く示唆される」という表現を聞くことがある。indicateより強く、showより弱いということだろう。では、「示唆される」と「強く示唆される」はどのような意味の違いがあるだろうか? 筆者の考えでは、この2者には意味上の違いがない。「XXが〇〇であることが示唆された」と「XXが〇〇であることが強く示唆された」は、XXについては同じことを言っている。
もし「強く示唆された」という表現を使った人に、「先程、「強く示唆された」とおっしゃいましたが、示唆された程度のデータだったと思います。強く示唆された、とおっしゃったのは示唆された以上に何か強い根拠があるということでしょうか?」と聞いたらどうなるだろうか?「めんどくせ〜」と思われることは間違いないが、答えに窮するだろう。
では意味がないのか?
「示唆される」と「強く示唆される」が同じ意味であるなら、「強く」という修辞には意味がない、との意見もある。確かにそうかもしれない。 ところが、この修辞には一定の役割がある。それは「発表者が強く主張したいと思っているところだ」ということを聞き手が読み取ることができるところにある。特に根拠が無いはずなのに「強く」という修辞を用いている以上、情緒的な何かが働いている場所であるに違いないのだ。発表者が、強く主張したかった何かの命題、それを明確には示すことができなかったけれどきっとそうに違いにないと強く信じているポイントに「強く示唆された」という表現が登場するのだ。
この意味で、「強く」という修辞には、発表者の思いを、聴講者に伝える役割を持っている、ということができる。決して無意味な修辞ではないと、筆者は思っている。
日本の研究力向上を達成するための方法を模索する シリーズ8回目 量から質への転換を!
はじめに
日本の研究力が低下しているといいます。
この問題を起こしている原因の1つは、研究の「質」よりも「量」を求めることにつながるたくさんの要因ががあることによります。
この問題は、明らかな問題であり、改善も容易です。
この記事では、この問題を取り上げ、改善策を提示します。
質よりも量
研究の質よりも量が重視されている。
質よりも量を求めるように、研究現場を駆り立ててしまう要因はいくつもある。
科研費の実績報告書
代表例として、科研費の実績報告書を取り上げる。実績報告書には、研究課題実施期間に発表した論文や学会発表を全て記入する欄がある。
記述をするのは、論文のタイトル、著者名、ジャーナル名、査読の有無であり、内容に踏み込んで記述することは求められない。
この欄が寂しいと、しっかり研究をしていなかったと思われるのではないか?なるべくたくさんの論文を記入できると、見栄えが良いのではないか?こう考えるのが、普通の研究者だ。ここで求められているのは、論文の質や学会発表の質ではなくて量だ。
どんないい加減な内容の学会発表でも、無名ジャーナルに掲載されたサラミ論文でも良い。とにかく、この欄に、多数の成果を書くことが重要。研究者はそのように考えるように仕向けられている。
その他の例
成果の内容や質に踏み込まずに、件数を求めるケースは他にも多数ある。人事応募書類では、実績リストが求められることが通常である。
また、研究機関が、個人評価をする際に、学会発表件数、論文発表件数を記述することを求めることも普通に行われている。
奨学金返還免除を受けられる学生を選出するのに、学会発表件数や論文発表件数から算出したスコアを用いることも広く行われているだろう。
学振の申請書も同じように、学会発表件数や発表論文数が求められている(すくなくとも応募者は、ほぼ例外なく件数の多寡を気にしている)。
このように、研究の内容、質には踏み込まないで件数を求められることが年に何度もあり、研究者は、論文の数と発表の数を追求するように常に動機付けられている。
改善方法
まずは、上に挙げたような各様式で、件数を求めることの害悪が十分認識されることが肝要だ。認識が広まれば、量から質への転換が図られることになる(本記事が拡散されると良い)。
具体的には、上記のような成果記述欄に、記述を求める論文や学会発表の数に上限を定めれば良い。
例えば、科研費実績報告書では、報告する論文の数に上限を設ければ良い。例えば、論文記述欄の注釈に、「本研究課題の成果に関わる発表論文を、最大2件記述して下さい。またその成果の意義の詳細を記述してください。成果の意義については、ピアレビューを受けます」とすれば良い(実際にピアレビューを実施する)。こうすれば、質の高い研究を、少数の論文にする方向に、研究者を動機づけることができる。
学会発表についても、件数を求めるのではなく、例えば「学会発表を行なった場合には、年度ごとに代表する1件を記述してください」などととすれば良い。
個人評価などでも同様に、件数を求めないように配慮する。年に1回程度学会発表していれば十分だろう(これはあくまでも義務といった側面を持っており、たくさん発表することを妨げるものではない。たくさん発表したければすれば良いし、本来学会発表は義務でするものではない)。
人事の応募要綱を作成する場合にも注意が必要だ。「過去の研究成果について、代表的なもの最大5件について、それぞれその意義を説明してください。」などとし、「業績リスト」を求めないようにする必要がある(求める場合は、それぞれの業績内容の質について深く問うなどして、数を良しとする悪い風潮を増長しないように十分配慮をすべきだ)。
研究機関評価がどのようになされているのか、残念ながら筆者はよく知らない。大学改革支援・学位授与機構が行なっているのだとは思うが、各研究機関の、論文総数に基づく評価を一切やめ、代わりに「論文最大10報」のように数を指定して、研究成果を提出させて評価すれば良い。
例えば、各旧帝大から論文30報といった数だ。数を絞る代わりに、成果の内容の詳細な説明を求め、これに対する匿名および実名のピアレビューを公開で実施する。これにより、各研究機関は論文の総数ではなく、質が高い少数の論文を追求することになる。いうまでもなく、ピアレビューはITC技術が発達した今日、容易に実施できる。海外の研究者にも協力を仰げば良い。
見込まれる良い効果
上記の研究機関評価方法は、量から質への転換を促す効果があるだけではなく、他にも良い効果を持つのでここに記しておきたい。
それは、別記事にした「組織内利害非共有問題」を解決する効果を持っているということだ。
研究機関に、5つの学部があるとしたら、研究機関はどのように提出する10報を選出するだろうか?おそらく各学部に4報程度ずつ提出させて、その中から、質を吟味して10報を選ぶことになるだろう。では各学部ではどうだろうか?学部所属員に対して、募集を行い、提出された論文の内容を吟味して、良いものを選抜することになる。
この時、研学部にとって、研究機関本部に提出する候補論文の質が高いことが重要になる。学部から報告する論文の数だけが重要なら、学部内でお互いに助け合う必要は必ずしもないし、学部内の研究者が研究内容をお互いに知らなくても良い。
一方で、成果の質が評価されて運営費交付金に反映されるのであれば、学部内でお互いに協力しあって研究の質の向上を図り始めるはずだ。すなわち、お互いに質が高い論文を研究科から出すという目的が共有され、組織成員の利害が共有されることとなる。
さらに、どの論文成果を本部に報告するかについては、会議を開いて、研究の質の吟味をすることになる。このプロセスにより、お互いがお互いの研究をよく知るようになり、お互いを助け合うための前提条件が整う。
終わりに
「件数を問う一方で、内容に踏み込まない」という悪いやり方が、どれほどの悪影響を持っているのか、ほとんど顧みられずに漫然と実施されています。
最近では、「top 10%論文数」なるものが求めるられるようになってきてはいるものの、top 10%は被引用数に基づくもので、質を評価しようというものではありません(優れた研究ではなく、取り組んでいる研究者が多い研究分野の研究)。
数重視のやり方をあらためて、質重視のやり方に改める必要があり、まずは、この問題(研究の量質問題)が知られるようになる必要があります。
「質を問わずに数を問う」ことの害悪が理解され、少数の成果の質をしっかりと評価する方式への転換が必要です。
P.S. 「成果の質を問わずに数を問うことに反対する研究者の会」(仮称)を発足してはどうだろうか?この記事の読者の中に、会の設立運営などをしていただける方がいらしたら是非立ち上げていただきたい。すでに誰かが立ち上げているかもしれないので、まずはこの仮称でググってみていただきたい。
過去記事
第6期科学技術イノベーション基本計画によって大学など研究組織の任期制は廃止に向かうはず。
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はじめに
2021年3月26日に、第6期科学技術イノベーション基本計画が閣議決定された。
この10ページ目に以下のような文章がある。
また、研究力については、ノーベル賞受賞者は多数輩出しているものの、論文の量・質ともに国際的地位の 低下傾向が継続している。特に研究力を支える若手研究者を取り巻く環境を見ると、任期付きポストの増加や 研究に専念できる時間の減少など、引き続き厳しい状況が続いている。
注目したのは「任期付きポストの増加や 研究に専念できる時間の減少など、引き続き厳しい状況が続いている」というところだ。
はっきりそう書いているわけではないが、「研究力の国際的地位の低下傾向が継続しており、これには、任期付きポストの増加という厳しい状況が影響している」という意味に読み取れる。
任期制は、行政主導で、大学など研究組織に導入されたのではなかったのか?なぜ政府が、人ごとのように言うのだろうか?
どういう経緯でこのような表現になるのだろうか?
これは、「大学など研究組織が任期制が導入できるように、法整備などをしっかりやった上で、任期制の導入を検討するよう大学などに促しはしたが、任期制の導入を決めたのはあくまでも大学などであって、行政ではない」。
と考えると辻褄が合う。
「大学などは、任期制を導入したくてしたわけではなく、運営費交付金削減などをおそれて、行政が促した任期制を、自らの判断で導入した。
その後も、任期付ポストを任期なしポストに変換したくても、行政による運営費交付金削減などをおそれて、躊躇してきた。」と私は思っている。
第6期科学技術イノベーション基本計画が発するメッセージ
第6期科学技術イノベーション基本計画は大学などに向けたメッセージであると考えることができる。
つまり「大学などが、任期付ポストを任期なしポストに変換したとしても、行政としては、運営費交付金削減などをすることはない。日本の研究力の低下傾向が食い止められるように、安心して各大学で対応をしてほしい」というメッセージだ。
このメッセージによって、大学など研究組織は、独自の考えで、任期制ポストをどうするか、自由裁量で考えることができるようになった。
このメッセージを発しておいて、任期付きポストを減らした大学に対して、任期付きポスト削減を理由にして運営費交付金を削減することはできないだろう。
このメッセージにみんな気がついているのだろうか?
問題は、このメッセージについて、大学運営関係者、メディアなどが気が付いているかと言うことだ。
広く知られることにならなければ、改善されないだろう。
とはいえ
ただし任期を外すのは慎重に行う必要があると思われる。
何故かと言うと、任期制だから、という理由できちんと人事をしてこなかった背景があるに違いないからだ。
ある程度(例えば平均以上)の研究能力があると認められた場合に、どんどん任期を外す、というのが今後の主流になると筆者は予想している。
このような方針を、明示的に掲げない大学には、人が集まらなくなり、衰退していくかもしれない。